◎  信心になりきるとは、日常茶飯事の出来事を一切を頂くこと。。。。

昭和四十四年六月七日 夜の御理解


 なりきるということは、なかなかそう見易いことじゃないと思うですね。けれどもやはりその、私共が信心になりきる、何事にも信心になれとおっしゃるが、ほんとにあのその人がひとりその場におったら、もうほのぼのとして信心でいう有り難い。有り難いなあといったような雰囲気が漂うくらいなものは頂きたいと私は思う。テレビであの、「天と地」とというのがありますですね。あんなかにあの宇野重吉という人が演技をしておりますですね。出ておりますが。ほんとにあの人が出て来ると、もうとにかく画面一杯にその何とは無しに、ほのぼのとしてそのよいものが生まれて来る。その役になりきっているということだと思うんです。決して器量が良いとも思わんのですけれども、器量はむしろ悪いですけれども、俳優としてはおかしな、いわば、おかしな格好をしてますけれども、そのなりきっているというところがね、画面一杯にああいうひとつのムードをもつことが出来るのじゃろうとこう思うんです。
 どうでもひとつお互い信心をさせて頂いておるのでございますから、例えばお互いそれぞれの職場、持ち場というのがありますから、その持ち場が、職場がほんとにあの、信心のムードでこう一杯になるような雰囲気を自分の身に持ちたい。ね、そこでどうでも私共が信心になりきらねばいけません。もうなりきらなければ、今朝からの御理解に、ばからしいです。自分が。ね、どうぞ、ひとつおかげ頂く。そのために、私は本気でひとつ、私共ほならどういうようにすれば、信心が身についてしまうかと、それは色々ありましょう。ね、教えを行ずるとか、お参りをするとか、色々ありましょうけれども、何というても私は、日常茶飯事の中にです、起きて来るすべての事柄とか問題とかいうことを、本気で、いわゆる信心で取り組むことだとこう思うんです。自分の感情を抜きにして、いわゆる、ここは信心でどう取り組むかと、いうことをまず考えることだと思うんです。そういう中から私はひとつのほんとに信心を頂いてござるから違うといったようなね。宇野重吉が出て来ると画面一杯に良い雰囲気があるように、私共がひとり家ん中にあると、ひとり職場に私共、信心頂いておる者がおると、何とは無しにそういう雰囲気が漂うくらいな、しかもそのまあ演技力の名人というかね、といわれるくらいにです、本気でそこんところを精進していきたいと思うですね。どうぞ